「もぎゃわん」の1コーナー『菊池遺産』のページです
菊池に伝わる歴史・文化を紹介しています

その八
御松囃子御能(おんまつばやしおのう)
第10号に掲載
 毎年、菊池神社秋の大祭中の10月13日に将軍木前の能舞台で演じられる菊池市に最も古くから伝承されている芸能である。
 宝暦七年(1757)の「菊池松囃子起源書」によれば、南北朝時代十五代菊池武光のとき、征西将軍として菊池に西下した懐良(かねなが)親王のために、正月の祝言として正月二日に守山城内で行われたのが始まりとされ、室町期より継承されていると考えられる。後に武光出陣中により正月の松囃子ができずに凱陣を待ち7月15日に行ったのが恒例となった。
 舞の振りが古風であり、謡(うた)も素朴な要素をとどめ、能の変化の過程を知る上で貴重であり、国の重要無形民族文化財に指定されている。
     (写真提供 : 菊池市教育委員会)
その七
永山橋
第9号に掲載
 文政六年(1823)に架けられたが、文政十二年の5月の洪水で流失した旧永山橋のかわりに、明治十一年(1878)に約130m上流に石工橋本勘五郎によって架けられた。当時、永山橋は熊本・合志・菊池と小国・豊後とを結ぶ小国循環の要路で、永山橋より4km西方にある日田循環よりの立門橋と共に肥後と豊後の交易の要路上の重要な橋であった。
 使用石材は近くの山、上崩迫(かみくずれさこ)より切り出されている。長さ24.4m、高さ17m、幅4.7m、輪石が45枚あり、架橋当時そのままの形を残している。石工の橋本勘五郎は皇居の二重橋や江戸橋、万世橋、浅草橋などを手がけた名工であり、丸型の欄干は勘五郎が用いた手法で、その特徴をもつこの橋は学術的にも価値が高いといわれる
その六
将軍木
第8号に掲載
 根回り約10m、幹囲約8m、枝張りは東西に約24mに達する椋(むく)の巨木。高さは約16mあり、樹齢600以上と推測される。北側の幹は腐朽し大空洞となっている。南方に繁る三大枝は4本の鉄柱で支えられ、主幹には裂けるのを防ぐために二個の鉄輪が巻かれているが樹勢はまだ盛んである。
 この樹は南北朝時代、征西将軍宮懐良(かねなが)親王が当時勢力のあった菊池氏を頼りにこの地に征西府を置かれた際、使われていた枝を地上にさされ芽が吹いたとも、御手植えのものとも伝えられる。「将軍木」の名も懐良親王にちなんでつけられたものである。現在でもこの樹を懐良親王の象徴に見立てて菊池神社の秋祭りの初日(10月13日)には松囃子能が奉納される。
その五
菊池武重(十三代)の墓
第6号に掲載
 菊池十二代武時の嫡子。元弘三年(1333)後醍醐天皇の博多の九州探題北条英時を討つべしとの命を受け、武時は大友氏に裏切られながらも単独で探題館に討ち入ることを決意し、共に討ち入るはずだった武重を呼び「故郷に帰り菊池家を再興せよ」と命じた(袖ヶ浦の別れ)。
 武時らが全員討ち死にしたなかで十三代肥後守を継いだ武重は「寄合衆内談(よりあいしゅうないだん)のこと」をつくり菊池家の家憲とし、合議制による団結を説き一族の結集を図った。「菊池千本槍」も武重の考案によるもの。墓は東福寺の観喜院跡にあり文化十三年(1868)に建てられた。
 命日の8月3日には墓前祭がある。
その四
熊耳山正観寺(じゆうざんしょうかんじ)
第5号に掲載
 興国五年(1344)建立した禅宗の寺院。南北朝時代肥後守十五代菊池武光が大方元恢(たいほうげんかい)和尚とその師である秀山元中(しゅうざんげんちゅう)和尚を招き、寺領に六十六町を寄進して開山した。
 菊池氏全盛の頃、境内には万松院など十四坊や堂宇が立ち並び、宝徳三年(1451)二十代菊池為那の頃には全国十刹(じっせつ)の一つに数えられ、代々碩学の高僧が輩出した西国屈指の大寺院であった。
 境内には菊池武光公の神道碑や武政・武澄ら菊池一族の墓所がある。
その三
立門橋
第4号に掲載
 万延元年(1860)4月完成。菊池川の支流柏川に架けられた単アーチ橋。石工長は種山石工橋本勘五郎の兄、宇一(宇市)がつとめ、石工、大工、人夫の総人数は5878人とされる。
 長さ75m、幅3.6m、高さ11.4m。地元の固い安山岩の切石で出来ている。下流側の両岸には流壊を防止するため石垣積により補強がされており、大型の眼鏡橋として学術的にも貴重な橋である。平行して流れる用水路には持送り式桁橋が設けられ立門橋と連結されている。
 建設時に橋に刻まれた「立門」の文字は漆喰が塗り込まれていて今でも読み取ることができる。
その二
築地横穴墳
第2号に掲載
 築地井出に面する岸壁に十数基つくられている。七世紀前半のもので地質は火山噴出の浮石(軽石)と火山灰の集塊層で出来ており羨門および外郭は比較的完全に残っているが内部構造は防空壕や肥料置場に使用され、ほとんどが破壊されてる。
 副葬品としては玉類・刀剣・農具・土師器や須恵器が出土している。
※土師器(はじき)=弥生土器の系統を引く古墳  
  時代から平安時代頃までに作られた赤褐色の素
  焼きの土器
 須恵器(すえき)=古墳時代中期から平安時代 
  まで見られる青灰色の焼物。ろくろを使い窯(か
  ま)で焼いてあるので土師器より薄く硬い
その一
菊之池跡
第1号に掲載
 菊池川が菊池盆地に流れ出る三角州の頂点近くにある深川地区。延久二年(1070)大宰府の荘官として来た藤原則隆が本城(深川城)を構えたこの土地に湧水池があった。この池は形が「菊の花」に似ていたことから「菊之池」と呼ばれた。これが「菊池」の名前の起源といわれている。又、この池の周りに菊の花が咲き乱れていたので、菊之池と呼ばれたとも言い伝えられる。(鞠智(きくち)―久々知(くくち)―菊池の説もある)
             参考文献「菊池の文化財」
                   「菊池氏三代」他